トライアル メモリ

12.マシンメーカー隆盛の頃
2011.12.10記
 なんとあのジョルディ・タレス(世界選手権7度のチャンピオン経歴)が開発したという全くのスペイン製ニューマシンが発表されました。
 名称はJotagas(スペイン読みでホタガス)のJTG300、車重は現在のトライアルマシン中最軽量の65kgとのこと。 発表されたばかりで、実戦は来シーズン世界選手権にてデビュー予定です。

 4年前程の日本国内における大会のトライアルマシン勢力図はホンダ4ストエンジン(ホンダRTL-F・モンテッサ4RT)のワンメイクレースになりつつありました。
 しかしその後ベータから発表されたEVOシリーズが急速に拡大し、現在はこの3強+GASGAS(ガスガス)・SHERCO(シェルコ)・OSSA(オッサ)の6メーカーとなっています。
 各メーカーのマシンはそれぞれに特性がありますが、マシンの善し悪しは一概に決められません。 トライアル競技の場合競技成績はライダーの技量によるところが大きいのです。
 トライアル競技が同一マシンによるワンメイクレースだったら、これほどつまらないものはありません。 色んなメーカーのマシンがあってこそ楽しく・競い合えて・マシンの進化も図れるものです。

 写真は1987年の頃です。 左頁(ページ)の上4枚中左側上下2枚はAPRILIA(アプリリア)でディエゴ・ボジスも乗っていました。 右側上下2枚はMERLIN(メルリン)で、エディ・ルジャーンがホンダを離れた後メルリンを操っていたのを覚えています。
 同じく左項の下写真ですが上3枚を左からJCM(ジェシーエム)・日本のヤマハTY-R・そしてBETA、下2枚は左からGARELLI(ガレリ)・MONTESA(モンテッサ)です。 ガレリはアメリカ人で唯一世界チャンピオンになったバーナード・シュライバーから落第点を評されたのを覚えています。

 右項の上3枚については左側上下2枚がGASGAS(ガスガス)、その右がFANTIC(ファンティック)で…エディ・ルジャーン後の世界チャンピオン2度のテリー・ミショーが操りました。
 その下4枚については左上下2枚がMECATECNO(メカテクノ)、右側上下がホンダ4ストマシンのRTL250SWです。
需要の少ない?トライアル競技において、なんと11社ものメーカーが競い合っていた時代もあったのです。 その後淘汰されたった4メーカー程となった冬時代もありましたが、来シーズンは新規参入のホタガスも見ることが出来るので楽しみになってきました。 トライアルマシンメーカーの隆盛再びに嬉しくなりました。

11.戦いを映像で見る
 そ
の昔エディ・ルジャーンが来日した事をきっかけに、日本のトライアル界は俄然世界へ目を向けるようになりました…世界に学び追いつきたいと。 彼のスーパーテクニックや正確なライディングはルジャーンショックとも言われて、このようなレベルの高い世界のトップが集う世界選手権に憧れが高まったのです。  しかし、それまでは世界の情報を得る手段はほとんどありませんでした。 それが、山本昌也選手が世界に挑戦(1985年)したこともあって、世界選手権の様子が雑誌に掲載されるようになり、記事を興味しんしん読んだものです。

 現在はインターネット普及により、大会の状況をリアルタイムで得ることが可能になりました(リザルトもセクショントライの動画も!)。 しかし当時はこのように情報を得る事は考えもつきませんでした、なにせ遠い海外の情報は月遅れの文面で得るのみであり、競技結果が掲載されるのを待ち望んでいたものです。

 そんな折、BOSCO MOTO(ボスコモト)から世界戦のVHSビデオテープが発売されました。 第1巻が1986年世界選手権のフィンランド戦、第2巻がスウェーデン戦として。 各巻9,800円ですが、見たい一心で価格が高いとかは気にしませんでした。 ライダーはテリー・ミショー、エディ・ルジャーン、スティーブ・サンダースの他、パスカル・クトゥリエ、ガビノ・リナレス、レナト・キャベルト、他。 世界トップの戦いが映像で観ることが出来、とにかく見入ったものでした。 文面では判らない大会の雰囲気やライディングテクニックも見えるし、とにかく映像は強みがありました。

 今は大会の様子を手軽にしかも映像を通して得ることが出来るようになりましたが、その走りとなったのはボスコモトの世界戦ビデオテープだったと思います。

ボス コモト:トライアル車初の水冷マシンであるアプリリア・クライマーのインポーターなどでご存知かと思います。

10.黒山一郎氏の世界挑戦
 1987年(昭和62年)に当時国際A級の黒山一郎選手(現IASチャンピオン黒山健一選手の父親)が、単身で世界選手権に挑戦しました。 ちなみにその前には1984年に山本昌也選手がスポット参戦し入賞を果たしています。 

 エディ・ルジャーンの来日により、世界レベルの高さに衝撃を受けた日本トライアル界。 その後山本昌也選手による参戦もあり、世界に憧れ挑戦しようとの気運が高まったものです。

 そんな中黒山一郎氏はトライアルに専念することを決意し大阪府警を退職、世界戦を観戦した後ついにフル出場を決意したのでした。 年齢は37歳とピークを過ぎていた事もあり、成績は思うようにはいきませんでした。

 黒山一郎氏本人の成績は振るわなかったものの、思わぬ成果がありました。 それは同行させていった息子さん健一君の活躍です。 自転車を乗り回しているうちに腕を上げ、自転車トライアル大会(プッシンクラス?)でなんと優勝してしまったのでした。

 その後は日本に戻り自転車トライアル大会開催→50ccオートバイトライアル大会を起し→子供達をチームブラック団として率いていきました。 その中から何人ものトップライダーが輩出してきたのは周知のとおりです、例えば藤波貴久選手・黒山健一選手・小川友幸選手・・・など。
 黒山一郎氏の情熱ある行動があったからこそ、日本トライアル界のレベルアップが図られ世界に通用する選手が育っていったのです。 2010.5/12記

9.トライアルデナシオン初挑戦
 国別対抗トライアル大会ともいうべき「トライアル・デナシオン=Trial Des Nations」。 このような大会があることを聞いた時、トライアルに団体戦という考えは馴染めませんでした。 今では全く違和感がありませんけど。

 日本チームが初めてデナシオンに参加したのは、1987年(昭和62年)に開催された第4回フィンランド大会。 MFJが派遣したチーム体制は9名で内訳はチーム監督+選手3名+メカニック2名+通訳兼サポーター等2名+MFJ役員。

 出場選手は伊藤敦志・山本昌也・中川義博の3名、果たして日本チームの成績は如何にと期待が高まったものです。 山本昌也選手はこの’84年世界選手権で6位入賞したこともあり、伊藤敦志は全日本チャンピオンであり、とにかく日本のトップ3が出場する訳ですから。

  しかし結果は12チーム中8位と意外な成績に終わりました。 ちなみに個人成績では全47人中日本人トップは伊藤敦志で27位。 かなりいい線行くのではないかと期待していただけに失意でした。 2〜3年のうちに世界と日本の差が急激に開き始めた事は感じていても、その世界を知らなすぎたと記してあります。

 先人達が挑んできたことで経験と戦いは受け継がれ、ここのところ日本チームは2位を獲得するまでに躍進してきたのだと思います。 振り返れば“世界に学び世界に追いつきたい”と渇望するきっかけになったような気がします。

8.エア・ボーン(AIR BORNE)
 エア・ボーン(AIR BORNE)…辞書を見ると“空挺部隊/空中を浮遊すること”とあります。 大地(もしくは水面)を蹴って宙に舞う、ターンしたり高くそしてより遠くへ飛んだり。 最初は遊び心と好奇心で始めたのが、次第に盛り上がり技は進化していく…。

 スケードボード・スキーのモーグル・スノーボード・BMX・サーフィン等色んなスポーツのエアターン、ワクワクはらはらするけど技が決まればヤッターと興奮してしまう。

 しかしオートバイも凄い、今じゃ空中でバク転なんかしてしまう。 その昔BMXでやるのを見て、重量のあるオートバイでは無理だろうと思っていたら、いつの間にか誰かがやってしまった。 出来ると分かるとあっという間に広まるのも凄い。 トライアルでも斜面をかけ上がってのダイナミックなエアターンなど見ると凄いと唸ってしまう。

 その昔というのは大げさですが、世界チャンピオンのエディ・ルジャーンが来日した時披露したエア・ターン(オートバイがその場で空中に浮き180度程向きを変えること)は新しい感覚でした。 これと似たアクションとしてジャンピエールゴアが見せたオーレターン(離れた2枚の斜面板でおこなうエアターン…写真に見る右側にあるようなもの、ただしこの間隔がもっと空いていた)もありました。 
 オートバイがBMXなどのようにもっと自由に宙を描けるようになるだろうかと夢見たあの頃でした。

7.自転車トライアルの始まり















 1987年の11月22日、京都府亀岡トライアルランドで黒山一郎氏とその息子健一君による自転車トライアル(BTR=Bicycle Trial…ただし現在はバイクトライアルと称されている)スクールが開催されました。 オートバイトライアル世界選手権に挑戦する黒山一郎氏が連れていった健一君が知らずのうちにBTRで成長し、BTR世界選手権の10歳以下クラスで1位になったのでした。 そのことから黒山一郎氏は自身の世界戦挑戦から健一君の指導に方針を変え、またBTRや50ccマシンによるトライアル育成に力を注ぐようになったのでした。 

 この日は大人(子供の親)も含めると37名も参加者があったようです、その中には北陸は金沢の東浅川小学校BTRクラブの生徒達とその卒業生の23名がいたという。 当時小学校でBTRクラブがあったというのは驚きで、先生や指導者達の熱意に敬意を感じます。 日本におけるBTRは1982年に来日したエディ・ルジャーンの言葉「トライアルやるなら、まずBTRから始めると良い」と、彼の弟であるエリック・ルジャーンのデモがきっかけ。 それから今までBTRといえば曲芸みたいな練習・乗り方しか知らなかったのが、このスクールで実戦的セクションを設定されまともに走れる少年は誰もいなかったとか。 この黒山一郎氏の行動があったからこそ、その後BTRでもオートバイトライアルでも世界で活躍する選手が育っていったのだと思います。 

6.SSDTへの誘い































 Scotitish Six Days Trial(スコティッシュ・シックス・ディス・トライアル)とは、オートバイが出来たころからスコットランドで毎年4月末〜5月に開催されている耐久レースです。 それは日本各地で開催されているツーリングトライアル大会に派生していますが、6日間の長きと内容のハードさでは群を抜いています。 オートバイトライアル世界選手権ライダーも多数エントリーし、その難関さからSSDTの格が高まっているように思います。 写真は1988年(昭和63年)のSSDTで、当年は日本人ライダーが大挙?して参戦した記念の年でした。

 まずトップライダー達を紹介すると、優勝がスディーブ・サンダース、2位がジョルディ・タレスでした。 それで日本人選手はというと黒山一郎37位・加藤文博38位、他には赤尾文夫(旺文社インターナショナル)・三留知一(日本ファンティックチームのコーディネーター)・宮田光幸(TJ誌編集長)・陳克明(東北)の出場もありました。 さらには日本人で初めてSSDTのオフィシャルを勤めた羽鳥幸夫さんとか、プレスとして取材した横山秀志さん・我妻淳子さん等もいらしたとか、とにかく多くの日本人で賑わったようです。 

 以後多くの日本人ライダーが挑戦しているSSDTですが、その制覇は世界選手権同様難しくあります。

5.栗子国際スキー場































 国道13号の福島県と山形県の県境にある同スキー場は多くの大会に利用されてきました、山形や福島の県大会に、東北選手権の福島大会に、そして全日本東北大会にと。 そして思い出も数多く残っています。

 20数年前の昔はノービスクラス(現NB)からジュニアクラス(現NA)に昇格するのは、一大会でも優勝すれば即昇格出来るのでした。 私がジュニアに昇格したのがここで開催された山形県大会、天候が悪く出場ライダーも少なかったのが幸いしたのかもしれません。

 同会場の大会では天候に恵まれることが少なかったように思います、標高の高いことが(雪深い地域ということも)関係しているのかもしれませんが…晴れていても滑りやすい岩・地面だったように記憶しています。 国際A級だった加藤 文博氏が「世界選手権を開催するならここだ」と評したこともあるように、バラエティに富んだ地形及びスキー場という広い駐車場そして地の利等良い面が沢山あるのです。

 しかしその後、同スキー場の運営が変わったことから借用許可も得られず、大会会場としては遠のいてしましました。 私も使用許可のお願いに赴いたこともありましたが、了解の返事はいただけませんでした。 理由は当時駐車場にスパドーム建設の案があることや、スキー場には複数地権者があって許可を得るのも難しいだろうとの見解だったように覚えています…想い出多き懐かしい栗子国際スキー場です。 

4.トライアルジャーナル創刊































 トライアル情報専門誌のトライアルジャーナル(=TRIAL JOURNAL、以下TJ誌と記す)が発刊されたのは1984年11月。 その情報を得た私は発売日本屋さんに直行!、しかし見あたらず他の書店へ…結局予定日より数日遅れで書店に並んでありました、流通の問題なのかどうかその後半年以上は発売日が定着しなかったように覚えています。 TJ誌を発刊したのは宮田 光幸氏、いくらトライアルが好きだからといっても雑誌を作ってしまうその情熱が凄い。 

 創刊号を飾ったのは山本 昌也の世界選手権6位入賞(1984年第11戦フィンランド大会にて)の記事、現役の全日本ライダーが世界でどれ位のレベルなのかという興味ある中、みごとその期待に答えたのでした。 これで多くの選手が「いつかは世界に挑戦してみたい」と述べるようになり、またTJ誌も積極的に世界の情報を伝えてくれたことで、世界が身近に感じられるようになっていきました。

 創刊号ではこの他にもビッグニュース=エディ・ルジャーンのV3達成を伝えていました、ただテリー・ミショーと接戦も多かったことから、チャンピオン交代のきざし有りかなと感じました。 宮田 光幸氏が作り上げたTJ誌は世界の情報を伝え続け日本におけるトライアル界の進歩に大きな貢献を果たしました。

3.ルジャーンへの憧憬































 エディ・ルジャーンが来日し生駒などでデモンストレーションのは、日本のトライアル界にとって正に黒船来航だったようです。 エアターンやリバースそれにも増して正確なライディング等。

 これは1984年1月15〜16日に東京の多摩テックで行われたスタジアムトライアル大会、海外からの参加ライダーはエディ・ルジャーンの他フィリップ・ベラチエとジョン・ランプキンの3人。 多摩テック内に設けられたセクションは10、トライアングルやドラム缶・ケーブルコア組合せそしてタワーセクション等。

 二日間ともエディ・ルジャーンの圧倒的な勝利に終わりましたが、皆を驚かせたのは大会の中では無くその表彰式後のデモ走行にあったのです。 セクションの最大の見せ場であるタワーセクション、駆け上がる為に作られたこの壁に見える4.2m高さからいとも簡単に飛び降りてしまったのです。 このライディングには誰も想定していなかったようで、どの雑誌を見ても撮影した写真はほとんど見受けられませんでした。

 日本人ライダーは誰一人真似しようとはせず、刺激されたベラチエが頂上に上がって下を覗いてみたものの考え込んでしまい、観客の「飛べ、飛べ」大合唱にも迷ったあげく中止しました(翌日世界ランカーの意地から飛び降りて見せましたが「怖かった」との事)。 偉大なルジャーンへ憧れたものです。

2.画期的マシンTY250R発売

















 当時の雑誌で見るとヤマハTY250Rの発売は1983年8月5日、乾燥重量81kgで発売価格52万円。 それまでと比較して画期的な戦闘力あるこのマシン、何が違うかというとリヤサスペンションがリンク式だったのです。 Fブレーキが大径のドラムブレーキで水濡れ後の利きもバッチリだったようですが。

 ホンダTLR200に乗っていた私が後年このマシンに乗り換えた時、あまりの乗りやすさに感銘したのを覚えています。 現在のトライアルマシンの進化原点はこのリンク式リヤサス+ブレーキのディスク化にあると思います。 リンク式リヤサスによって大岩を難なく超えることが出来、ディスクブレーキによってミリ寸法的に正確なブレーキング制動が可能となったのですから。

1.第11回全日本GP 高杖大会































 トライアル日記2008.12/7にも記載しましたが、私が初めて見たこの大会は特に強く印象に残っています。 1983年(S58年)の11月6日に福島県会津高原高杖スキー場で開催された第11回全日本トライアルGP大会。 注目は世界挑戦から戻ってきた服部 聖輝と、18歳でイギリスチャンピオンのスティーブ・サンダースの参戦でした。 トシ西山氏が招いたのかなと思いますが、とにかく素晴らしいライダーでした。

 その年トライアルの真似事を始めた私は“全日本大会”という事でどのような妙技が見られるのか楽しみで、わくわくしながら大会当日朝4:00頃自宅を出て会場へ向いました。 それにしても場所は福島県会津地方の南、役員の皆様はよくぞここまで通い続け開催にこぎ着けたものです。 郡山や福島から3〜4時間、当時トライアル東北部会長だった大友さんが仙台から通うには5時間ほどの距離です…それだけの情熱が見受けられました。

 オートバイレースで良い成績を残すのにマシンと人間の比重を考えると、トライアル競技は断然人間(テクニック)重視だと思います。 何せ加藤 文博などヤマハ勢が戦闘力抜群のモノサスマシンTY250Rを持ち込んだのに対して、優勝した服部 聖輝は公道走行可能の市販車ホンダTLR200を250ccに排気量アップしただけのマシンでしたから。 更に服部 聖輝より減点のすくなかったサンダースのマシンはアームストロング。 当時の外車はクラッチが切れない・Fブレーキがカチッと利かないようなイメージがあり、そういうマシンをコントールしてトップを獲ってしまうのですから。

 サンダースが川の中の直角に曲がる狭いポイントで岩に当ててフローティングターンをしたのが有名です。 大岩・川・マディ等様々なセクションがあり全般的にダイナミックでセクションが良く設定されていました。 黒山一郎がクランクケースカバーを開けてフライホイールリングを外す場面を見かけたり、色んな場面が思い出されます。 最終セクションは国際A級専用の人工セクションも用意されていたように覚えています。

 成績を見てみると国際A級はトップが賞典外でスティーブサンダース、以下1位:服部 聖輝・2位:加藤 文博・3位:山本 昌也・4位:工藤 靖幸・5位:伊藤 敦志・6位:山本 弘之・7位:小谷 重夫・8位:鈴木 章平・9位:畑山 和裕・10位:井上 一彦。 国際B級は1位:中川 義博・2位:小坂 政弘・3位:坂口 澄男・4位:大久保 秀昭・5位:和田 弘行・6位:杉山 克己・7位:佐藤 雄一・8位:深田 強・9位:金田 耕一・10位:上福浦 明男。 ジュニアクラスは1位:行徳 繁雄・2位:山田 道雄・3位:新田 良・4位:田中 芳樹・5位:岩田 靖・6位:浦 章夫・7位:井上 等・8位:星野 光男・9位:岩田 正弘・10位:久間 隆彦でした。 当時はポイントが貰えるのは10位入賞までのようです。 あと1位はBP(ベストパフォーマンス)、2位はRU(ランナーアップ)と称していました。

 本大会は私がトライアルに感動してのめり込むきっかけとなった観戦でした。